表現手法(スタイル)を教えることは容易い。それは技術的なものだから。・・・これは友人であり芸術家の岩崎さんのブログで見つけてきた。これを、作文教育風に直すと、「言語技術を教えることは、容易い」となる。ちょっと、ハッとした。なぜなら、私は最近、「言語技術」という極に、大きく揺さぶられていたからだ。お陰で少し、「自己表現」という極に戻る勇気が出た。わーい。
「つくば言語技術研究所」というところがある。
http://members.jcom.home.ne.jp/lait/
(お、またつくば?最近縁がありますなぁ)。三森ゆりかさんという方が代表を務めている。彼女はドイツの言語技術教育を下敷きに、日本向けの言語技術教育を確立した方、といえばいいのだろうか。私のような「井の中の蛙」にはやはり気づかない内容だ。盲点をつかれた。三森さんはつくばでは、言語技術教室を持っていて、本もたくさん出されているので、私もいつも、授業で参考にさせていただいている。その具体的な内容については、また別の記事で紹介したい。
三森さんが発言されているように、ドイツに限らず海外では、小学校から高校あたりまで、一環とした「言語技術教育」というものがあり、先進国でそれがなされていないのは、どうやら日本だけらしい。だから今、言語技術教育が必要なのは、当たり前と思った方がいい。みなさん、感じている方も多い。従来の日本の「国語」教育は、一部でいいから、すぐにでも方向転換すべきと思う。文科省も教科書を作る方も、当然気づいていると思うが、なかなか変えられないしがらみもあるのかな?
なのでここはしばらく、作家の井上ひさしさんも書いているように、民間が頑張らねばならない(「井上ひさしの作文教室」参照)。
岩崎さんの美術教育の話に戻る。確かに美術は専門的なものだ。しかしそこにおいては、技術や手法を教えることは、もう既に確立されている分野であるようだ。その上で「手法を教えることは簡単だ」と言い切り、その奥にある、「表現」ということを問うている。
国語においても、本来全く同じであるはずだ。技術は教えるのが容易い。大切なのはその先だ。そこをどう伝えるのか。または、子どもから引き出すのか。しかし、美術の世界と大きく違うのは、ベースであるはずの「言語技術教育」が、日本において全くと言っていいほど、欠落しているという事実である。愕然とする。じゃ、自己表現はできてきたのか?と問うと、これもまた妙に文学的なエリアばかりに偏っていたと思う、がこれはさておき。
だから今、言語技術なのだ。間違いなく。だけど、それはあくまで技術だということも一方で忘れてはならない。技術は何かの目的のためにある。ここでは「自己表現」とか「コミュニケーション」とか「思考」とか、そういった目的のためにあるのだ。だから私は教室において、「言語における自己表現」ということを、これまで以上に大切にしたいと思う。大切にしつつ、技術もやっていきたい。欲張り!?うふっ。でも、三森さんのすごいところは、「個人的なことは作文に書かせない」というところだ。理由はそんなこと「評価できないから」だ。とても誠実な姿勢だと思う。
ついでに言えば、「国語」の技術は専門分野でも何でもなくて、一般に誰でも身に付けるとお得な技術だ。何もここで、作家を生み出そうという話ではない。人はみな、コトバにおける表現者であり、生きるということは「人生の表現者」に他ならない。
★追記★ 冒頭の文章の続き・・・
表現手法(スタイル)を教えることは容易い。それは技術的なものだから
しかし表現者にとって一番大切なことは
「社会に対してなにを問いかけるか?」
「その問いかけを如何に自分の中で醗酵させられるのか?」
「そして問いかけに対する反応をどうやって受け止めるのか?」
という点だと思う。
もう一つ、岩崎さんのブログの「教育」の記事にも、同じことが。↓
http://hideta.seesaa.net/
★三森ゆりか著、オススメの本。言語技術研究所のホムぺにもあります。
「論理的に考える力を引き出す」親子でできるコミュニケーション・スキルのトレーニング (一声社)
「イラスト版 ロジカル・コミュニケーション」 (合同出版)
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