カテゴリー「書籍・雑誌」の10件の記事

2007.08.24

★鏡の中の犬

鏡の中の犬

『読書の時間に読む本』(ポプラ社)

この中の 星新一の短編『鏡の中の犬』は、たった6ページですが、 感想文三枚書けます!森君(六年)は、書いていました。

彼はこの本を、本屋さんで自分で見つけて買ってきたそうです。どうしてこれを選んだのか聞いてみたら、五年のときに伝記を読んで感想文を書いたところ、大変苦労したとのこと。それで今回は「短いもの」が、彼の至上命題だったようです(笑)。去年の失敗(?)が生かされた素晴らしい選択だと、わたしは大いに褒めました。

ちなみにこの本には、星新一のほかにも椋鳩十、斎藤隆介(教科書にも載っている人)、などの短編が載っています。中には『屁っぷり嫁さま』(松谷みよ子)などの民話まであります。編者は西本鶏介です。

どれもすぐに読め、短い時間で何度も読み返しができ、お話の全体像をつかめるので、感想文にはお勧めです。『感想文のために読む本』と、書名を変えても十分通用する一冊です。

長い本は楽しみのために読みましょうね。

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2006.04.30

★本を作るぞ

本を作りたい。もちろん出版社から出して、ふつうに書店で売るやつです。

実は以前から言っていたのですが、イマイチ、わたしのその気が、ちっともその気にならなくて。本当にお待たせしてごめんなさいね。ちーちゃんママ。

「ぶんぶんちゃんは、文集を作るといったのに、いつになったら作るのかしら?」

・・・とおウチで言ってたとか。ちーちゃんがこの前教室で、暴露してました^^でもそのおかげで、ちょっと重い腰が、上がりかけてます。ありがとう。

本の中身は、中学生が真面目に、大人や学校をどう見ているのか、という内容を考えています。真面目にです!!ここ、大事。でも、本は柔らかい感じにしたいなー。中身も楽しい感じにしたい。

で、小学館のさいとーさん、さいとーさん。プロダクションの方でいかがでしょう?企画出しにいきますから、よろしくね~~

中身のイラストと、表紙のデザイナー、そのイラストも、もう決まってます。原稿(作文)も、ありますよー。(有言実行にしないと、すぐ忘れるので、覚書です)

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2005.11.26

★コジコジ

このわたくしに、コジコジねたをふるとは、いい度胸だー。

コジコジは学校でいつも、零点を取っている。その学校は、将来「ミッキーマウス」などの有名なキャラクターになることが、夢であるような学校。

人間界で言えば、ミッキーになれた人は、出世コースに乗ったということになるのかな。


さて、劣等生のコジコジは、ある日「マイナス5点」という、前代未聞の点をとる。なぜなら、自分の名前の文字すら間違えたからだ。

そんなコジコジに、先生は呆れて訪ねた。

「コジコジは、将来何になるつもりですか?」と。するとコジコジは答えた。


「コジコジは、大きくなっても、コジコジのままだよ」と。

さくらもももこの漫画「コジコジ」で、わたしが一番好きな場面です。(ちょっと混ざってるかもしれないけど、私の中のコジコジです)

えへん!

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2004.08.18

★ブタ便所

 昨日、体験で教室に来たお友だちが、持ってきた本がこれ。『食べ物と自然の秘密』(小峰書店)です。今年の読書感想文コンクールの、中学生向け課題図書の一冊です。

 表紙の写真、レイアウト、色、そして本のタイトル、どれを見ても、そそりません。地味です。読む気になれない硬さが漂っています。あくまで、私の感性には訴えないという意味ですよ。誰が、どうして、こんな本を手にとるのか??それはひとえに、課題図書に指定されているからに、他なりません

 これ、ふつうに書店に置いてあったら、たぶん売れないでしょう。っていうか、私が本屋さんだったら、そう判断します。内容は、アジアの国々の食べ物や食文化について、真面目に書かれたルポものかな?

 これで書くのか、キミも辛い人生だな・・・と、キモチ鉛のように重たい本を、ぺらぺらとめくって見ると・・・凄い!凄くオモシロイ写真が、載っているではありませんか!!なんだ、この写真だけで、感想文かけるよって言うぐらい、めっちゃ、インパクトのある写真です。2枚ぐらいあったかな。そして、そこに書いてある文章もオモシロイ。

 写真の一枚は、豚のちょん切られた生首が、台の上にいくつか並んでる。それも笑っているではありませんか。写真のコメントには「笑っているブタの顔は、幸運を呼ぶと言われている」というような意味が書かれている。凄いな、この国は。えっと、それは韓国だったっけかな?
 
 もう一つは、「ブタ便所」の写真と文章。これも、オモシロイよーー。人間がウンコをする。その下にはブタが飼われていて、ブタがウンコを食べるという話。うわーーだよね。でも、そのブタを食べるのは誰よ? 詳しくは読んでみて。きっと、じっくり読めば興味深いと思います。

 私が編集者だったら、そのブタの生首の写真とか、「ブタ便所」の写真とかを、表紙に使うなーー。それが「色気」というものではありませんか? あくまで、いい意味で面白くなくちゃね。

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2004.08.15

★指令1「笑いを追及せよ!」

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 ぶんぶんちゃんへ
読書感想文を17日にやるんだよね?その前までになんか本を
読んでおきたいと思います。何を読んだらいいと思う?
なんかあれこれあって定まらない・・。


 いづみちゃんへ★指令1「笑いを追求せよ!」

 ねぇねぇ、いづみちゃん? 今日はいったい何日かな?15日だよ、15日! 
仕方ないので、大阪で撮ってきた上の写真を、プレゼントしよう。これをよーく見れば、何か思いつくはず。
竹チャンにとっては、ガンダム、いづみちゃんにとっては(      )←???

 あなたは「笑い」が好き。「笑い」こそ人生にとって、大事なものだと思っているはず。私は前に、教室で子どもたちと笑ってて、こう思ったの。

「笑いこそ、真理を運んでくる」って!!

『嘘ばっかし』(天野祐吉著)←漢字ちがうかも、はいかが?

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2004.06.27

★言語技術と自己表現の「間」は、男と女の「間」に似ているかも?

 表現手法(スタイル)を教えることは容易い。それは技術的なものだから。・・・これは友人であり芸術家の岩崎さんのブログで見つけてきた。これを、作文教育風に直すと、「言語技術を教えることは、容易い」となる。ちょっと、ハッとした。なぜなら、私は最近、「言語技術」という極に、大きく揺さぶられていたからだ。お陰で少し、「自己表現」という極に戻る勇気が出た。わーい。

 「つくば言語技術研究所」というところがある。
http://members.jcom.home.ne.jp/lait/

 (お、またつくば?最近縁がありますなぁ)。三森ゆりかさんという方が代表を務めている。彼女はドイツの言語技術教育を下敷きに、日本向けの言語技術教育を確立した方、といえばいいのだろうか。私のような「井の中の蛙」にはやはり気づかない内容だ。盲点をつかれた。三森さんはつくばでは、言語技術教室を持っていて、本もたくさん出されているので、私もいつも、授業で参考にさせていただいている。その具体的な内容については、また別の記事で紹介したい。

 三森さんが発言されているように、ドイツに限らず海外では、小学校から高校あたりまで、一環とした「言語技術教育」というものがあり、先進国でそれがなされていないのは、どうやら日本だけらしい。だから今、言語技術教育が必要なのは、当たり前と思った方がいい。みなさん、感じている方も多い。従来の日本の「国語」教育は、一部でいいから、すぐにでも方向転換すべきと思う。文科省も教科書を作る方も、当然気づいていると思うが、なかなか変えられないしがらみもあるのかな?

 なのでここはしばらく、作家の井上ひさしさんも書いているように、民間が頑張らねばならない(「井上ひさしの作文教室」参照)。

 岩崎さんの美術教育の話に戻る。確かに美術は専門的なものだ。しかしそこにおいては、技術や手法を教えることは、もう既に確立されている分野であるようだ。その上で「手法を教えることは簡単だ」と言い切り、その奥にある、「表現」ということを問うている。

 国語においても、本来全く同じであるはずだ。技術は教えるのが容易い。大切なのはその先だ。そこをどう伝えるのか。または、子どもから引き出すのか。しかし、美術の世界と大きく違うのは、ベースであるはずの「言語技術教育」が、日本において全くと言っていいほど、欠落しているという事実である。愕然とする。じゃ、自己表現はできてきたのか?と問うと、これもまた妙に文学的なエリアばかりに偏っていたと思う、がこれはさておき。 

 だから今、言語技術なのだ。間違いなく。だけど、それはあくまで技術だということも一方で忘れてはならない。技術は何かの目的のためにある。ここでは「自己表現」とか「コミュニケーション」とか「思考」とか、そういった目的のためにあるのだ。だから私は教室において、「言語における自己表現」ということを、これまで以上に大切にしたいと思う。大切にしつつ、技術もやっていきたい。欲張り!?うふっ。でも、三森さんのすごいところは、「個人的なことは作文に書かせない」というところだ。理由はそんなこと「評価できないから」だ。とても誠実な姿勢だと思う。

 ついでに言えば、「国語」の技術は専門分野でも何でもなくて、一般に誰でも身に付けるとお得な技術だ。何もここで、作家を生み出そうという話ではない。人はみな、コトバにおける表現者であり、生きるということは「人生の表現者」に他ならない。

★追記★ 冒頭の文章の続き・・・

表現手法(スタイル)を教えることは容易い。それは技術的なものだから
しかし表現者にとって一番大切なことは
「社会に対してなにを問いかけるか?」
「その問いかけを如何に自分の中で醗酵させられるのか?」
「そして問いかけに対する反応をどうやって受け止めるのか?」
という点だと思う。

 もう一つ、岩崎さんのブログの「教育」の記事にも、同じことが。↓
http://hideta.seesaa.net/

 ★三森ゆりか著、オススメの本。言語技術研究所のホムぺにもあります。

「論理的に考える力を引き出す」親子でできるコミュニケーション・スキルのトレーニング (一声社)
「イラスト版 ロジカル・コミュニケーション」 (合同出版)

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2004.06.18

★子どもに感動的な作文を期待するのは、もうやめよう!

 「娘が学校で書いてきた作文を、見て欲しいんです」。教室の子どものお母さんから、電話があった。題名は「プールに行ったこと」。読んでみると、プールに行って帰ってくるまでのことを、スケジュールメモのように書いているのだが、肝心のプールで泳いだことについては、ほんの2行しか書かれていない。教室ではこういう作文を「スケジュール作文」と呼んでいる。小学生にはよーくありがちな作文だ。「読んでも面白くないんです。もう少しなんとかならないかと、、、」とお母さん。

 かなり思い切ったことを言います。無理です!これ以上は書けません!お母さんとしては、プールで泳いだ様子を生き生きと書いて欲しいと思うのは、よーくわかります。でも、無理なんです。今すぐは。

 理由その1。作家の井上ひさしも言っている。 
 
 『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』(新潮文庫)の164ぺージを開いてみる。・・・「遠足に行きました。楽しかった」。大人にしてもプロの物書きにしても、これしか書けない。プロでも書けないことを、小・中学生に要求している国語教育が間違いだ。・・・要約すると、こんな風に書いてある。

 「丸谷才一さんの言葉を借りますと、日本の国語教育は、全生徒をすべて小説家か詩人にするつもりでいると。これが日本の国語教育の根本的な欠陥です」(同ページから引用)とある。

 同感です。教室を9年ほど続けてきて、私もやっと悟りの境地にたどり着いた。なーんていうのは大袈裟だが、私もすごく苦しかった。何年も教室の通ってくれている子どもで、ちっとも上手くならない子がいる。私の教え方がいけないのだから、何とかしなくてはと。確かに、クラスで一人二人、上手い子がいる。でもそれは才能なのだ。教えたから上手くなったのではない。絵が上手な子がそうであるように。

 最近ようやく分かった。そもそも「上手く」と、大人が勝手に思い描いている「像」が、違うのだ。大人が思い描く「上手い作文」とは、まさに遠足や運動会などのできごとを、場面描写して生き生きと書き、読んだものに感動を与えるような作文だろう。しかし、書けないのが当たり前と、まず心得なければいけない。

 あるいは、読書感想文。あらすじだけ書いて最後に「面白かったです」としか書けない。もっと、感想や意見を書きなさい。思ったとおり書きなさい。と大人は言う。しかし、書けない。だが、期待するほうが無理で、書けないのが当たり前なのだ。それをやらせようというのだから、みーんな作文も本も大嫌いになる。

 じゃ、どうしたらいいの?って。まず、あきらめましょう。そこからです。(次の記事へ続くよ、きっと)

 ★Sちゃんのお母さんへ。もしこれを読まれていたら、Sちゃんは、小2という年齢から見ても、とても論理的で、文章が上手だということを、分かってください。だって、どこを読んでも訳のわからない部分、ないでしょう?そして、感動的な文章をいますぐ要求することが、間違いだってことと、それは日本の国語教育全体を変えていかなければならない問題だということを、ご理解ください。
 それから、あの作文はきっと、学校の先生が「会話」の書き方を、指導したかったのではないですか?

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2004.06.09

★オマエの居眠りは「仮眠」でなく「惰眠だ」ぞ!ダミン!

 「こちら○貫書店です。ご注文されている『月間言語』が、もう4ヶ月分もたまってます。早く取りに来て下さい」って何度電話が来たのだろうか。ちっとも取りに来ないお客に飽きれて、頭の薄い店主が「お宅どこですか?」と、教室まで持って来てくれたこともある。親切な人だ。だから本の注文は、私はネットではなく、この書店から注文している。特に急ぎでもなければ、二週間かかって届くその「間」も楽しい。それでまたかかってくる。「ご注文していた○○が届きました」って。で、またしばらく取りに行かないんだから。←これはもう「間を楽しむ」って言うより、「間延び」しちゃってるよね?

 そんなめんどくさがりで、怠け者の習性のお陰で、『月間言語』3月号(大修館書店)を昨日手にした。その中に、「カウンセラーに求められる『聞く力』」という記事がある。東京都立大・臨床心理学・岡昌之氏の書いたものだが、記事の最後に詩が載っていて、それが\(⌒O⌒)/なの! カウンセラーでなくても、こんな風に生きられたら素敵だな。「聞く力」って、こんなに難しいものだったのかと、思い知らされる。(以下、独り言風に)
 
 この中のたった一行でも、ちゃんとできているか?ワタシ。
 オマエの居眠りは「仮眠」でなく、「惰眠」だぞ!だみん! 

 やっと本題。「カウンセラーの聞く力は、たとえば以下のような日々の努力と工夫によって培われる」と説明された後に、次の詩が載っている。
  
 人間を信ずること
 自分を知ること 
 正直になること
 よく見ること
 
 疑うこと
 畏れること
 思い出すこと
 諦めること 

 体を大事にすること
 しばらく待つこと
 こだわらないこと
 落ち着くこと

 モーツァルトを聴くこと
 ベートーベンを聴くこと
 ビートルスを聴くこと
 童謡を聴くこと 
  
 色彩感覚を養うなうこと
 粘土遊びをすること  
 言葉遊びをすること
 ドラマ感覚を養うこと

 大人になること
 子どもの心を生きること
 社会意識をもつこと
 独りを楽しむこと

 万巻の書を読むこと
 仮眠をとること
 今を生きること
 地球の歴史を考えること

 相手を認めること
 間を大切にすること
 自分を出すこと
 耳を澄ますこと
 

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2004.05.30

★ぶんぶんのトリビア

 ボーカルレッスンの本を買った。北小金サティーの2階CDショップには、確か一冊しかなかったので、とりあえずそれを買った。そしたら、すごい本に出会った!すごい人に出会った!著者でヴォイス・アーティストの福島英に会ってみたい! と思った。書名は「これで完璧! ボーカルの基礎」 リットーミュージック発行。

 最近エレキギターを始めた。それで夢は一応バンドやることなの! で、どうせならボーカルもやろうかなって、欲張ったわけ。で、カラオケだけじゃしょうがないから、この本を買ってみた。中身はもちろんトレーニングの基礎が書かれているんだけど、至るところに福島英の「心意気」があふれてる。そっちの方にかなり感動し、実はトレーニングはまだ一度もやってません。中でも、何度も読んで噛みしめてしまうのは、あとがきなんです。引用します。

 「さて、私の研究所にも多くのトレーニング志願者が訪れます。なかには本で述べられたことを実際に体験したいという人もいます。しかし、大切なことは表現することにあるのです。そうでない人は、本当の意味では学べません。」(中略)

 「人間は、人と出会わなくては変わりません。歌は、それを成り立たせる音や言葉と出会わなくては変わりません。後略」 
 
 ここで引用した内容は、ごくあたり前のことかもしれない。だけど、私は最近見失っていた気がする。自分の教室を振り返れば、作文を書く前に「型」を教えることがある。確かにそれも大切で、子どもはそれに当てはめれば、誰でもも作文ができ上がる。「型」=「縛り」の中でこそ、安心して自由に書くことができるのだ。

 だけど福島英の上の文を読み、私はすぐに、主語を「歌」から「文章」に替えて考えてみた。「文章は、それを成り立たせる音や言葉と出会わなくては変わりません」となる。

 音というのは、この場合生きた対話、ライブのやりとりだと思う。これはぶんぶんの一番のウリかもしれない。子どもからは「ぶんぶんのトリビア」と言われている。いわゆる私が喋るのは全部「ムダ知識」なんだそうだ。(by ながつ)上手いこと言うよね。そして言葉というのは、あらゆる小説や詩などの表現だ。そして私たちは毎日の生活で、いろんな人と出会う。 

 ひとやコトバに出会って、今日、何を感じ、何を考え、何を悔しがり、何を怒り、何を悲しみ、何を喜んだか。そしてひとに何を表現したいのか。伝えたいのか。

 「どう思う?」と尋ねると、「別にぃ」「どうでもいい」「関係ない」という子どものコトバを受け止めつつ、それでも私は子どもに迫ろう。「今日、言いたいことはなあに」と。 

 ★ブレスヴォイストレーニング研究所 http://www.bvt.co.jp/

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2004.05.17

★サナギのように私を縛って

 【改訂版】新松戸の和民で飲んでいたとき、芸術家岩崎氏が「座禅を組むと、幽体離脱みたいなことが起きて、自分を客観視できるんだよ」などと教えてくれた。つまり座禅という形で身体を拘束すると、魂が身体から抜けるというようなことかな・・・
 ふと、知人の書いたある小説が甦った。村本健太郎が書いた『サナギのように私を縛って』。もう十年以上も昔の話だが、あの頃私は彼の小説をどきどきしながら読んだことを思い出した。今私の目の前に、既に廃刊となった「海燕」1992年11月号がある。第十一回「海燕」新人文学賞受賞。久しぶりにぺらぺらめくった私は、でもすぐに記憶にあった一行をみつけた。

 「自分がなめらかな存在になりうすく広く草原いっぱいに拡大して」

 ここだ! ナナコがフジムラに、足首から肩口まで全身サナギのように縛られ、目隠しさるぐつわされ、耳と鼻にも詰め物をされたときの意識の、ほんの一端。
 
 「身体が縛られると、意識って身体の外に拡大していくのだな」とぼんやりと、しかし今になってみると確実に私の脳裏に染み付いていたんだナと思った。「縛る」のも「座禅」も同じ? 私は確信を得たくて、もう一度気になる一行の周辺を読んでみると「宇宙から地球を眺めている視点」 というフレーズを見つけた。座禅は幽体離脱して自分を見れる。「サナギ」はイキナリ視点が宇宙まで飛んで行っちゃうんだ。でもやっぱり同じだ!

 身体への「縛り」は、魂なり精神が身体から外へ出て自由になろうという意志やパワーをもたらす。そして外に出た魂なり精神は、自分を客観的に見ることができる。「縛り」は苦痛を伴うが、快楽でもある。誰でも「自分は何者か」が分からなくてもがいているからだ。「自己を知る」という快楽や「精神の自由」という快楽を得たければ、「縛り」の苦痛から逃げてはいけない! っていうか魂が自由に飛ぶのって、きっとスプラッシュマウンテンに乗ったみたいに気持ちよさそうじゃない?

 「生徒にはガチガチのスタンダードを教えるべき。そこから反発力が育つ、、、」と岩崎氏。
 「ダメなものはダメって言えない親って一体なんだろう。縛りがなければ子どもは自立もできない」と百田氏。
  
 って話しにつなげるのは、ちょっと無理? いや、大人は子どもをもっとギュッと縛れって!「自由な精神」の持ち主にしたいのなら。蛇足ながら、縛られ残された部分の感性は研ぎ澄まされるってことも付け加えておく。

 

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