長崎の小学生の事件について、考えている。今ごろになって新聞見たり、インターネットのニュース見たりして。私はいつも「子どものコトバによる自己表現」に関わっているので、無視できない事件だ。我が子も女児と同じ年頃だ。事件を捉える側面はたくさんある中で、コトバやコミュニケーションという視点で考えてみたいと思う。がしかし、何をどう考えていいのか、わからないでいる。
事件を起こした女児について、私の気になる情報を整理してみたい。
・小5の頃の文集に、何か悩んでいるようなことが書かれている。
・自分のホームページでは、クラスの人たちについての悪口も過激に書いていた。
・小説家志望だった。
・バトルロワイアルという本(コミック?)が好きだった。
・ホームページのなかで、上記のストーリーを真似た小説を書いていた。被害者の女の子の名前を登場させていた。
・ホームページの掲示板で、被害者女子に、ぶりっこ、髪型がへんだと指摘されたり、また、学校で背中に乗ったときに「重い」と言われ、気にしていた。
・ナイフを首に押し付けるなどの、殺人シーンが出てくるテレビドラマを見て、殺人を決意した。
彼女のホームページなどでの言葉遣いは、ちらっと見た限りだが、とても大人びて早熟である気がした。私が一番「どうして?」と疑問に思うのは、彼女は文章を書くことが好きだったという点だ。小説家志望であることや、ホームページで発信していることからも想像できる。そんな彼女が、なぜ自分を冷静に見ることができなかったのか??今は、彼女の書いた内容がどうだったかは、詳しくはわからない。単に、感情的で過激で攻撃的な内容だったのかどうか。
文章を書くということは、本来、自分自身を探求し、知ることにつながると思っている。また、文章を読み直すことで、自分を客観的に見ることもできる。だからこそ私は、つたないながらも作文教室をやっているわけだ。ものごとを深く冷静に考えることができれば、殺人という犯してはならない「自己表現」を例え考えてみたとしても、実行するところまでの時間や空間の「間」の中で、冷静になることもできたと思う。
なぜ、殺人を起こす前に、自身で冷静に深く考え直すことができなかったのか。これじゃ、作文の敗北じゃないか!!どんな文章を書いていたにせよ、彼女はコトバで自己表現をしていたのだ。たとえそれが、インターネット上であろうと、書いてる自分は「生身の自分」だ。ネットのこちら側とあちら側には、常に生身の人間がいるのだ。生身の人間として、自分の「内側」でどうして自分を引き止める「なにか」がなかったのか。むしろ文章で自分自身を過激なほうへと追い込んでいったのだろうか。
彼女を殺人者に至らしめる前に、なぜ、彼女の「外側」にも、引き止めるものの「なにか」がなかったのか。それは周囲の人のさり気ない言葉だったりするのに。それどころか反対に、殺したいと思ったとき、そこで後押しするものが、いくつか重なってしまったという「間」「魔」の悪さがあったのかもしれない。
私の作文の師・宮川俊彦氏はいつも、人の行動を全て表現としてとらえ、【作用・反作用】で考える。そう考えると、殺人を犯した彼女は、人を殺そうと思うほどの【作用】を、相手のコトバなどから過敏に感じ受け止めてしまい、その【反作用】として相手の命を奪ってしまったというのだろうか。
コトバは人を殺しもする。折に触れ、教室の子どもたちに言っているコトバだ。今回はコトバをうけた受けたものが死んだのでなく、反対に人を殺してしまった。
ちなみに、以下のニュースサイトは、関連記事をまとめてあって、とても見やすい。
http://news.www.infoseek.co.jp/topics/society/sasebo.html
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