こんにちは。
ぶんぶんちゃんです(^o^)丿
小学館アカデミー(学習塾)さんの作文クラスでは、
ぶんぶんのテキストを使っていたただいています。
(共同開発です)
そちらの子どもたちの書いた作文を、いまちょうど添削スタッフが、
添削しているところなのですが・・・。
声を大にして叫んでいいですか!
「作文は、道徳や、常識を教えるためにあるんじゃない!」
ちょっと、叫んでみました。
これ、大人というか、添削者は、つい、反社会的な作文があったりすると、
書いた内容に対して、反対したり、注意したりしてしまうんです。
たとえば、「こんな学校あったらいいな」というお題があります。
その作文で「ルールを破ってもいい学校」という作文がありました。
そこだけ読むと、ええーーー、これを誉めちゃっていいの?と
心配になるかもしれません。
本当にやったらどうしよう?と。
でも、その作文にはしっかり理由らしきものが書かれていました。
「いつもルールを守っているので、たまにはそういうのもいいかなと思いました」
というような内容でした。
つまりこの子は、ルールを破ることが正しいと思っているわけではなく、
いつもきちんと守っているからこそ、ちょっと窮屈さを感じていて
作文の中(想像の世界)だからこそ、やってみたい!と思ったということが
作文を読めば分かるのです。
「こんな学校、あったらいいな」は、実際ないような学校でもいいから
考える、想像してみることが、大事な課題なのです。
それに対して、「学校はルールも学ぶところだから、こういうことは賛成できません」などと
添削者が書いてしまっては、身も蓋もない。もうこの子は、自由に書こうとは思わなくなるでしょう。そう思わせないことが、大事なのです。
では、どんどんルールを破りましょう!って書けばいいのか。
それはただ子どもの書いたものに、同調しているだけ。
相手を否定せず、「共感」しながら「寄り添いながら」も、どうかくか?
それにはこの子が、この作文の半歩先に、何を考えたらいいかってことを考えるのです。または違う視点を与えてあげるのです。
例えば・・・・
「ルールをいつも守っているからこそ、破ってみたいと思ったんだね。
そこはわかるなぁ。きゅうくつな感じがするものね。冒険したいよね。
さて、ルールをみんなが破ったら、どうなるかな?
廊下を走らない、というルールで、どうなるか考えてみよう。
また、破ってもいいなら、最初からルールはいらないよね?
ルールのない学校。なんていうのもいいね。
するとどうなるだろう?」
などとアドバイスしたいところ。
その子がそれを読んで、廊下を走ったらどうなるか、ぶつかって危険だと考えたとしたら
その「考えてみた」過程が大事なのです。
その過程をこそ、与えるべきだし、奪ってはいけないと思います。
だから作文では「道徳や常識を教えるためにあるんじゃない」ということになります。
自分で考えて気づいたり、失敗したり・・・という経験が大事です。
自分で考えてみてから
「やっぱりルールは破ってもいいのは、駄目かもなぁ。なら、一日だけルールを破ってもいい日とか、反対のルールの日、があってもいいかも」と、さらに考えてくれたらいいな。
あ、今頃いいこと思いついた!
というように、「書く」ことをとおして、思考は進化し、深化するのですね(笑)
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